「わたし」がいない。誰かの言葉で、自分を埋めるのをやめる時。

自己紹介

長期カウンセリングコースの受講生さんと、先日、かなり突っ込んだお話をしました。

「これについて、あなたはどう思うの?」 と、わたしが聞くと、

「〇〇さん(有識者)がこう言っていたから、こうだと思います」と答えられたんですね。

わたしはすかさず、「いや、〇〇さんはどうでもいい。あなたはどう思うの?」と伺いました。 

しばらく考えた果てに、彼女の口から出たのは「・・何も出ない」という言葉でした。

さらに衝撃だったのは、

「もしかして、わたしが見立てとして投げたことも、ビンゴなら自分の気持ちとしてインストールしちゃうの?」と聞くと、

「そうです!」とのこと。

つまり、自分の中の答え(着地点)を、他人が持っている。 

他人が、自分の人生の「参考書であり、解答集」になっちゃっている状態です。

内心、「うわ、まじやばいぞ! どうすべ?!」と一瞬頭を抱えましたが・・ (わは)

大丈夫!ここから再び始めていけばいいんです。

この受け止め方をついしてしまう、という方、実はとってもとっても

とーーーっても、たくさんいらっしゃるんです。

 その言葉、本当に「あなたの本音」ですか?

説得力のある誰かの言葉を取り込むことを、「自分の考えを持っている」と曲解していませんか?

自分の地力の限界、視野の限界。

そこから脱却したくて他人の価値基準を取り入れるのはいいのですが、それはあくまで「情報」に過ぎません。 

頭で納得しても、暮らしの中で一歩が踏み出せない、継続できない。 

それは、本当の意味で「納得できていない」証拠なんです。

ここで多くの人が、

「有識者の言葉をインストールできない自分はダメだ」と自分を責め始めます。 

でもね、やる必要のあることはそこじゃない。 

「なぜ、そうやって自分を責めてしまうのか」という自分の癖に、時間をかけて向き合っていくこと。それこそが、本当に楽に呼吸ができる道なんです。

 生きながら「幽霊」になっていませんか?

「自分がどうしたいか」がわからないのは、長い間、誰かが喜ぶ自分をやり過ぎてきた証拠です。 

社会的に「いい人」と思われ、居場所を確保するための、あなたなりの生存戦略だったのかもしれません。

でも、その生き方が長引くと、「誰の人生を生きているのかわからない」という感覚がついてきます。 

まるで生きながらの屍(しかばね)、手応えのない幽霊のような感覚。 

素敵なものを手に入れても、味を感じられない。そんな生き地獄はつらいものです。

風呂上がりのカラッとした感覚を、日常に。

まずは、誰かのための「義務」や「責務」が湧いてきたら、一時停止する癖をつけましょう。 

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相手が乳児でない限り、その人は無力ではありません。

転んでも自分で立ち上がる力を持っています。

これまで他人に注いできた思いやりを、これからはご自身に向けてあげてください。 

自分との信頼を積み上げていくのは、対人関係と同じで時間がかかります。

でも、その積み上げこそが「わたし」という確固たる芯になります。 

融通もきくし、変化もするけれど、起点はいつだって自分。

その時初めて、他人の意見を鵜呑みにせず、フラットに聞ける自分に出会えます。

手間はかかりますが、それを超えた先には、「風呂上がりのカラッとしたあの感覚」が日常になります。

足踏みしている「あなた」を迎えにいこう

あなたの中には、まだ見たこともない、知らない自分が「出番」を待ちながら足踏みしています。 

一人ではちょっと難しいかも・・と思う方は、カウンセリングというサポートを賢く使ってくださいね。

言葉の手垢を落として、あなた自身の声を聞きにいきましょう。

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