「わたしはわたし」が当たり前になるまで。〜“ゴール”のない生き直しルートの歩き方〜

自己紹介

日々の暮らしの中で、
ふいに、自分の奥から突き上げてくる思いがあります。

「これ、ちゃんと書いておこう」と。

今日はそんな話です。

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「変わりたい! 現状は嫌だ!」 

そう心の底から願うエネルギーは、最初のエンジンとしては最高です。

だけど、ちょっとリアルな話をしますね。 

心のこと・・・もっと噛み砕けば、これまでの「価値基準」を書き換えるのには、それなりの時間がかかります。

一瞬の魔法でパッと人生が開けるなんてことは、まずありません。 

だって、記憶も感情も体感覚も、すべてが複雑に絡み合っているのが人間という生き物だからさ。

「沼」から始まった、わたしの再スタート

わたし自身、ガチな共依存の家庭で育ち、他力本願の沼しか知らない人生でした。

「みんなという名の多数派に受け入れられ、安泰でいること」こそが、わたしの安心を取り戻す唯一の方法だと信じて疑わなかった。

怖がりだったわたしは、有識者の意見をさも自分の意見のようにすり替えて、今ならゾッとするような「薄気味悪いブログ」を書いていた時代すらあります。

(遠い目・・)。

そこから「わたしはわたし」というベタな言葉が、自分自身の当たり前になるまでには、長い、長い時間を要しました。

 今だって、まだらです。でも、生涯まだらでいい。それが自分だから。

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上書きは容易じゃない。だけど「意地」が勝つ。

実際、心理塾を出た後もしばらくは「自分<他人」を優先して、周りに飲み込まれる日々が長く続きました。 

自分を上書きするのは、そう簡単じゃありません。

だけどわたしは、ほぼほぼ毎度、最後のギリギリのところで、

「自分を引き上げることを、今世で見捨てるのは意地でも嫌だ!」 という想いが勝つんです。

そこは、昔からかもしれないですね。

で、ビビりながら、一歩ずつ、行動を変える。 

するといつの間にか、「みんなに受け入れられること」がわたしのゴールから消えていました。 

優先順位の圏外。価値も色も感じない。 まだらながらも、わたしの骨格は確実に変わっていました。

 凡人であるという「覚悟」と、清々しさ

若い頃のわたしは、「自分は特別な人間だ」という厨二病を引きずって、余計に人生を歪ませていました。 

でも、「自分はただの凡人である」と認めたことで、皮肉にも「誰とも違う自分」を心の底から受け入れられるようになったんです。

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自分を生きるって、難しさはないけれど、覚悟は要ります。

もちろん、今でも思い通りにいかないことも山ほどありますが、この10年、わたしの心にはずっと

「でもわたし、自分の人生を生きてるわぁ・・」という清々しさがあります。

両親が大切にしている価値基準とは正反対の道をずんずん歩いていますが、これもある種の親孝行なんじゃないかな、なんて、

実は勝手に思っている自分もいます。

永遠の人生なんて、どこにもないから。 

凝り固まった自分の引き出しをいくらかき回しても、名案なんて出てきません。 

わたしの中の神様(正気)が、わたしをここまで導いてくれた。 

自分一人では、絶対に無理でした。

もし、少し時間がかかっても「本気で変わりたい」という方がいるなら、気軽に声をかけてください。

もし、
少し時間がかかっても「本気で変わりたい」と思うなら、
その気持ちを、どうか軽く扱わないでください。

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